学校では習わない日本の歴史

はじめに

日本史の主な出来事を一件づつ検証してみると今では考えられない程の高度な頭脳の気配があった。

☆越前一乗谷 朝倉英林の家政十七ヶ条 現世に通じる教えとは。

☆美濃の国関村 三千七百人の命を守った 大嶋雲八とは何者なのか。

☆長崎奉行の裏側に何があったのか。

☆仙洞御所警護の本来の目的は何であったのか。

☑江戸幕府の危機管理 世界に類例のない二極政治をどのように操ったのか。

☑なぜ、日清戦争が起きたのか 目的はなんだったのか?

☑なぜ、日露戦争が起きてしまったのか?

☆関係なさそうな 第一次世界大戦 日本は密かに参戦 莫大な利益を受けていた。

☑丹羽郡秋津村の大庄屋《現江南市》幕藩体制が解けて間もない明治の初期 打って出た経済の秘策とは   

 

歴史の講演回数は数知れないほどの経験があり、皆様にわかりやすくそして過去の歴史から現代に伝えれるものを皆様にお伝えいたします。


~越前 朝倉氏の研究記録~

 門閥の雄

朝倉一系一族 悠久の七百年。

朝倉うじ 朝蔵氏 浅倉氏 浅蔵氏 安桜しょう 浅井氏

稲葉氏 上杉氏 大嶋氏 斎藤氏 武田氏 長井氏

 

あの、激動の戦国期に、一武将が多機能な未来都市を建設、庶民文化と、政治経済の発信地として一乗谷を築いた目的は。 遺記孝景条々から、封建社会真っ直中に朝倉の萬世一系合理主義がどの様に理解されどの様な影響を与えたものだろうか。 この時代、これ程までに人倫を重んじた理由はやはり一族の永久とわの繁栄を願った英林独自の改革の一策ではなかったか。

今世においても同様、人倫を重んじなければ良い人材は育たない。また、良い人材が集まらなければその集団の将来はない。 その起発を作るのは言うまで もなくあるじであるが、そのあるじ自体の資質、人格が今問題なのである。

(参考典籍、福井県史、岐阜県史、日本史大典中世法制史、古語大辞典、新釈漢文大系、日本国語大典、漢和大辞典)


概要

朝倉一族の起源は平安時代、但馬たじま養父やぶ朝倉から生じている、 後に越前に国替えし南北朝時代から足利方の名門で畿内近国における室町幕府体制の重鎮であった。 しかし、一向一揆、姉川の戦い、刀禰坂とねざかの激戦と続き、致命となる主と都をなくし、 あの天下分け目の関ヶ原の合戦(1600)を待たずして、政経に影響力をなくしていった。

その後、多くの旧臣たちにより復興を願い軍記、史籍などが綴られ、一族の結束と存続をはかってきたが、 江戸幕府においては殆ど名声を聞く事なく、明治、大正と過ぎ去り、昭和も四十四年になり四百余年の永い眠りから 一乗谷市街は地中から全貌の輪郭をさらし目覚める事になる。

(朝倉始末記、朝倉家録、朝倉越州記、加賀一向一揆、賀越闘諍記、越州軍記、孝景条々、朝倉宗滴話記わき、朝倉記などが多く武家の教典となっていた)


朝倉孝景たかかげ英林

正長元年4月19日生文明13年7月26日没(1428-81)嫡子氏景うじかげとその家臣、子孫への遺記、 家訓十七箇条一書従本(同様文で十六条とも言う)を記し越前を統一、一乗谷(福井市の東南10k足羽あすわ川支流一乗谷)に 朝倉一族の近代都市やかたを築き本拠地とした。

最新の土木技術で、他に類例のない都市を計画、神社仏閣、一族の居館群、武家、商業地の町屋敷などを南北半里の谷地に成形し、 平安京を模した都を制定した。下城戸門と上城戸門との高低差25Mの間を570丈(約1730m)できっちりと割り、10丈(100尺=30.3m)を基礎単位として、 その倍数で民家、町屋、武家の区割りする測量技術などはその水準の高さが分かる。しかも、一万を越える人口を集め、それが百年も続けば、 それは紛れもなく中世の都市計画による都市の形成である。

当時の常識で、城下町は防衛と従属武将の忠誠心を組み合わせ、あるじを中核にし放射状に階級を配置する、 悪くとも主は最後まで生き延びる設計がされている。しかし、一乗谷はその概念が少し違う、東方一乗山の山頂に城を築き、その麓に館を置き、 左右に側近武家を置き一乗谷川を挟み町屋、中級武家、寺院が並ぶが、以外にも上、下城戸閭門外に重臣を配備し、 しかも、経済的副中枢として繁華させる設計などは、商業も兼ね合わせた自由流通の都市計画ではなかろうか。

領国統治は安定し、都からは公家、文化人の多くが滞在し、一大文化と経済の発祥地となった。 また、足利義昭(室町幕府最後の将軍)もこの場で元服を迎え長く居留したという。 この理念に基づいた国造りが五百数十年前に存在した事実は財力、技術力を誇示し、栄華の極まりかと合点するかも知れぬが、 なにか、現在の我々を取り巻く経済第一主義に追われる社会構造とは違った別の世界があったような気がする。

『壁書』の文中には随所に強調されているが、しゅたるは人として行うべき道理、 守るべき秩序の概念が確立していれば必ず良い人材が育成出来ると言う信念が強調されている。 この信念を信頼した従士はそれ以上の倫理観を持ち、都市一乗谷と言う情報伝達と社会環境の適性規模の中で自了の力を発揮、 他の卒士に伝わる、不言之教と言うべきか時間は掛かるが確実に地勢が上がる。

本旨ほんしは防衛の都合でこの地形に都を設定したと言うが、英林の思想はそれ程単純なものでは無いと思う。 『報本反姶もとにむくいはじめにかへす』と言う言葉がある、大地一乗谷から受けた恩栄に感謝し、その英知をまた一乗谷に返す、 英林ここに照準を合わせていたのではないか、この思想の循環還流は地理的にこの一乗谷でなくては出来なかったのではないか。

一段上の領主の館群から全市が一望でき、都の端まで徒歩で小半時、水利よし、治安よし、産業の自給ができ、 経済が過大膨脹しても山間のため人口制限が出来る仕組み。行政改革、地方分権はここから始めるべきではないか。

この様な理念に基づき物心共に理想郷を築き上げ、国の中枢機関とその都を造り上げてしまった男は他にいただろうか。 国を思い、民の繁栄を深慮してか、それとも一族の末を案じてか、はたまた英林自身自分への果たし状なのか。 創造力豊かな理想の個性派であったに違いないが、これだけの独創性は余程の基礎教育を受け基本修得が成立していないと通常は空論となってしまう。 文末にも表現されているが当時の論語は絶対的なものであったと思う、しかし、この古典さえも彼は比喩をさけている。 また、司馬しば法、孫子などの兵法の引用がない、 すでに奈良時代、政治家吉備真備きびのまきびらが留学した唐から兵書が多く舶載され知識層には秘法として伝わっていたが、 あえて純国粋派である。

今日の政治、経済において随分倫理観が論議されているが、英林の理想の都市『一乗谷』、一乗谷から発した英林の理念『壁書』を理解すれば、 余りにも違う倫理観に論比なぞ辱禍之至言う。 その英林から百余年が流れ四代目、義景につなぐが時の知将浅井長政、武田信玄らと、反信長勢力を結成し矛ほこを交わすが、 天筒山てづつやま、姉川の戦いを経て、刀禰坂とねざかの合戦で不覚をとり天正元年(1573)八月、 四十二才で一族と共に生涯を閉じる。


越前朝倉氏の研究記録

朝倉英林壁書

古文語訳にあたり英林の理念を推理しその意思を優先した為直訳ではなく推測の部分があります

 

一、於朝倉家、不可定宿老しゅくろう其身之器用可従忠節事ちゅうせつにしたがうべき

『朝倉家に於いては、世襲制度を否定し新しい人材の登用を唱え、常に家と人の為を考え、真心をもって尽くすべきである事を提唱する』

*壁書

孝景が子の氏景に残したとされる一書で文明三年の頃(1471-1481)の制定といわれる、 同様それより約百年前に建武之式目という法令で建武三年(1336)に幕府が十七個条で制定している。 内容の第一条は、近年、皆々が都を鎌倉から京に移せというが、その事よりも法理、政道を正すべきではなかろうかと言う。 これを比べるに、国家と家法との違いはあるが、内容は式目以上のもので英林独自の法曹学で、分国法を基準に民への心遣い、 治国政策、主君の心得を示した萬世一系合理主義の基本教育書である。

*宿老を定めず

当初の原文は高老となっている、長老を永く職につかせず若い人材と交替の意。

 

一、代々持来などとて、団扇うちわならびに奉行職預けらるまじき事、

『先代からの申し送りなどで、武将とか奉行要職の依頼などがあっても引き受けたりしてはいけない、縁故関係のつながりは避けるべきである』

*団扇

うちわとは、軍配団扇を意味し実戦の武将という意。

*奉行

うけたまわりを行うという意、上位者の命を受け行事の執行を行う。

*まじ

否定的な推量意志 まじから=未然。まじく、かり=連用。まじ=終止。まじき、かる=連体。まじけれ=巳然。

 

一、天下雖為静謐てんかせいひったりといえども遠近之國々に目付けを置、 所々之行跡を被聞候きかれそうろうはん儀、専一之事せんいつのこと

『世間は平穏無事な様であるが、遠近諸国へは監視を怠らず、情報を聞き取る事にひたすら努力せよ、慢心を避け、警戒の心を常にもつべきである』

*雖

言えども、そうだとしても、

*静謐

静かでひっそりとしている事

 

一、名作之かたなさのみ被好このまれまじく候、其故そのゆえは、 万疋之太刀まんびきのたち為持共もたせるとも百疋之鑓百挺ひゃっぴきのやりひゃくちょう には勝るまじく

候、百疋之鑓百挺求、百人に為持侯もたせそうらはば一方いつほうは 可禦事ふせぐぺきのこと

『名刀を好み自慢するな、それは、一人に高価な刀を持たせても、槍百丁には勝てる筈がない、 高価な名刀の代金で百挺の槍と百人の兵士を雇う事ができる、そうすれば他方から干渉もされず、 防御する事が出来るではないか、それを名刀一振りで出来るというのか』

*万疋

一疋は貨幣単位で十文、当時、他の史記録で、『たかが六、七千疋の借財に太刀七振りも預けたのが しゃくでたまらぬ』と言う。所謂いわゆる高価という意。

 

一、四座よざ申楽切々呼下さるがくせつせつよびくだし、 見物被好間鋪候けんぶつこのまれまじくそうろう以其価そのあたいをもち、 國之申楽之器用ならんを為上洛じょうらくさせ

仕舞しまいを習はせ候者そうらわば、 後代迄可然歟こうだいまでしかるべきか其上そのうえ城内に於、夜能よのう 被好このまれまじき事。

『多くの人が集り、能を聞き入るのも結構であるが、都から呼び寄せてまで演じさせるものではない。 ならば、国の中から申楽に向くものを都へ行かせ、しぐさを習わせ演ずれば結構ではないか、 ただ、費用のかかる夜能は好ましくないから止めた方がよい』

*四座之申楽

満席の能で中世の即興で滑稽こっけいな語りと、模写芸に唐の散楽が加味されたもので、 近世になって能楽と狂言に分離する、(現岐阜県美濃市の俄かと言う語りがあるがそれに伝承されたのでは

 

一、侍之役さむらいのやくなりとて、伊達白川だてしらかわ 江立使者候ししゃをたてそうらいてて、良馬よきうま、 鷹被求間鋪候もとめられまじくそうろう、自然他所より

到来候者尤候とうらいそうろうはもっともにそうろう、 其も三個年すぐればば、他家江被送おくらるべし、 永持仕候得者ながくもちつかまつりそうらへば必後悔出来候事しゅったいそうろうこと

『例えば武将と言う事肩書きで、陸奥の国、伊達白川あたりの、名馬、鷹などを求めに行かせるのはいかがかものか、 常々、節義と警戒心を忘れてはならない、また、理由なく他所からきた者は不用心で、三年も預かれば早々に他国へ送るべきであり、 永く置けば必ず何かが起き後悔することになる』

*伊達白川

奥州全体を言う、陸前、磐城、現宮城県仙台及び福島県白河、当時、繁栄していた東山道の果てまでという意

*自然

おのずから、自分から、

 

一、朝倉名字之うちを始、年始之出仕之上着しゅっしのうわぎ、 可為布子ぬのこたるべしならび各同名定紋おのどうみょうじょうもん を可被為付つけさせらるべし分限有之ぶんげんこれあり

とて、衣装を結構せられ候者そうらわぱ國端くにのはしに在庄之侍は 花麗かれいに恐れ、貧乏之姿にて出悪でにくしなどとて構虚病けびょうをかまへ、 一年不出いでず、二年三年出仕不者しゅつしつかまつなざれば、 後々者のちのちは、朝倉が前へ祗候之輩可少事しこうのともがらすくなかるべき

『朝倉一族に申す、年始の挨拶だけは欠かすな、質素な木綿の綿入れで良い、それぞれ定紋を付けるがよし。 中にはすこしばかり羽振りが良いと言って結構な衣装など整える者もいるが、田舎に住む武将らは、その派手な事を嫌い、 貧乏姿で出にくいと、一年、二年三年と仮病けびょうを装うかもしれぬ。ついては、その者達より釈明の言葉など聞きたく無く、 そのような事を言わせてもならぬものである』

*布子

木綿の綿入れで寒季に着る質素なもの、

*定紋

朝倉氏の家紋は三盛り木瓜もっこう紋(瓜を輪切りにした形)で元来唐の宮廷の装飾模様であった。 わが宮廷でもそれを踏襲とうしゅうし、家具、牛車などに家紋として採用した。 公家大徳寺家と姻戚のあった朝倉家は平安中期(1000年頃)に氏族の印として下賜げしされている。 木瓜紋は織田家で名高いが信長の先祖が(四代前)、門閥を重んじ朝倉家に紋章の譲受を懇願し、姻戚を申し出て一つ木瓜紋を贈与されている。 (当時紋章が無い家系は全てに於いて席外扱い)皮肉にもその後、信長の時代で織田、朝倉家は恩讐の仲となってしまう。 朝倉家最後の大名義景は刀禰坂で敗れ、信長に大野六坊まで追い込まれ自刃をさせられてしまった。 残された一族と一万余の市民は、信長の軍勢により百余年にわたり繁栄した一乗谷と共に跡形もなく焼き討ちされ一切を失うことになる。 いかに戦国の世とはいえ民衆を巻き込んだ、あまりにも惨むごい仕打ちではなかろうか。 地中から掘出された遺物から判断するに食器類からは食事中の急襲であったのか食べかけを残したまま出土している、 また、武家屋敷からは利器類が一切出て来ない理由などは、数箇所に火を放ち金品など根こそぎ持ち去る手段であったのか。 しかし、閥閲ばつえつのなかった織田家も木瓜紋を頂戴するとき、朝倉家に何と言ってひぎまずいたものか。 織田は末代下僕としてお仕え申す所存で御座いますとか。因果というのは恐ろしいもので、 一乗谷を焼き払って(1573)信長天下を取ったと思いきや、それも束の間9年後(1582)に明智とやらに 本能寺に乗り込まれ火攻めに会い悲しくも哀れな憂目をみる。 万事、この様な理不尽な計らい事すると必ずこの身に振り返ってくると言う事で身を持っての立証だと思う。 理由は定かではないが以来、朝倉一族においてこの木瓜紋を使用していない家系もある。 清流一乗谷川はその様な人間の表裏などまったく関知せず、自然の摂理に心ゆだね、のどかな山間を以来四百幾年流れ続けている。 ただ、閭門下城戸の巨岩群達だけは、昼夜を問わず今以て一人の通行人さえ見落とすことなくそそり立ち、朝倉一族への忠節を尽くしている。

分限ぶんげん

資産があって裕福な者を言う、

祗候しこう

しきたりを破ったことに対する弁明、

 

一、其身之成見悪候共そのみのなりみにくくそうろうともなげたらん者には、 可有情なさけあるべし、又臆病おくぴょうなれども、 用義押立ようぎおしたてよきは、

共使之用ともづかいのように 立候たちそうろう両方闕他りょうほうかけたらんは、 所領之費歟しょりょうのついえか

『配下におく者として、身なり風采が悪くとも、律義りちぎで気立てが良き者には、それなりの惜しまぬ情けを掛けよ。 また、控え目ではあるが、諸事の判断、推量が良い者は、国のために共に仕えさせるべし、よって、両方に欠けたるは只の浪費で使い者にならない』

所領しょりょう

与えた田畑、山林

文末の疑問反問体

 

一、奉公之者ほうこうのものと無奉公之族ほうこうなきにやから、 同事に会尺おなじことにあしなはれ候者そうらわば、 忠節之半漢ちゅうせつのはんかんいかで可有候哉あるべきそうろうや

『公のために働く者と、そうでないものと同じ様に扱ってはならない、主君のために働いている者の立場を十分理解をすべきである』

*半漢

天馬半漢たりの意で帝に仕え国の空を勢い良く駆け巡る意、

 

一、さのみ事闕候ことかきそうらはずば、他國之牢人ろうにんなどに、右筆うひつされまじき事、

『一概には言えぬが、事を欠いてはならぬといって、他国の牢人などに代書などの依頼は以ての他である』

*さのみ

一概には言えぬが(後続文を否定)

*牢人

律令制で戸籍に記載された本貫の地を離れ、納税の義務をのがれ主をもたない武士。(科人とはこの時代別)

*右筆

武家に勤める職名で代書書記官

 

一、僧俗共そうぞくともに、一手に芸能あらん者、他国江被越間鋪候たこくへこされまじくそうろう、 但、其身之能そのみののうまんじ、無奉公之輩ほうこうなきのともがら

は、可無曲事きょくなかるべきのと

『僧と俗人を一手に出来る才能のあるものは、他国へ行かせてはならぬ、ただし自分の才能を自慢したり、公に仕えないものは自由にさせよ』

 

一、可勝合戦かつべきかっせん可執城責等之時とるべきしろぜめとうのとき、 選吉日きちじつをえらび調方角ほうがくをととえ、 遁時日事口借候ときひをのがすことくちおしく如何様之いかよう吉日なりとも、

大風に船をいだし、猛勢に無人にて向は、其曲有そのきょくありまじく候、 雖為悪日悪方あくにちあくほうたりといえど、見合、諸神殊しょしんことには八幡摩利支天に、 別而致精誠べっしてしょうじょういたし励軍功候ぐんこうをはげみそうらはば、 勝利可為案中事しょうりあんのうちたるべきのこと

『勝てる戦、落とせる城責めの時に日柄、方角を選び機を逃してはならない、また、どの様な吉日でも大風に船を出したり、 多勢に無勢の戦など間違ったことはしてはならない。たとえ、日柄、方角が悪くても皆で神に願い、 それぞれの者が考えた方策を一心にし、たてた手柄を励ませば必ず勝利は立案どうりになるだろう』

別而致べっしていたす

わかちて致す、それぞれ別々に

 

一、為器用正路輩きようせいろたるともがらに申付、年中三ケ度計どばかり、 為遵行領分りょうぶんをじゅくぎょうさせ土民百姓唱どみんひやくしょうのとなえを聞、可被改其沙汰そのさたをあらためらるべし、自然

少々ハ形を引替候て、自身も可然候事しかるべきそうろうのこと

『利発な配下の者に言っておく年三回位は領内の巡回を申し付け、民衆の訴えを聞き政治を改めよ。また、責任あるものは、 みずからなり姿を変え、自ら国内を見回り、偽りのない意見を聞き国政に反映させよ』

 

一、朝倉が館之外やかたのほか、国内に城郭を為構かまえさせまじく候、 惣別分限そうべつぶんげんあらん者、一乗谷へ引越、郷村には

代官計可被置事ばかりおかるべきのこと

『朝倉の城以外、領内に城を作ってはならない。して、管領地には代官などを置き、羽振りの良き者は一乗谷に引っ越して来るがいい』

*が

格助詞の『の』と同意

 

一、伽藍仏閣ならびに町屋等巡検之時は、少々馬をとどめ、 見悪みにくきをば見にくきと云、よきをばよしと言はれ

候者そうらわば不致者いたらざるものも、御詞おことばに かかりたるなどとて、しきをばなおしし、よきをば、弥可嗜候いよいよたしなむべくそうろう造作ぞうさく不入いれず、 国を見事に持成もちなすも、国主の心づかひに寄るべく候事そうろうこと

『寺や町内を見回るとき、たまには馬を止め見苦しい所は見苦しいと言い、また、良い所は良いとほめたたえれば、 いたらない者は主が言葉を掛けてくれたと言って悪いところを改め、良い所は益々良くするであろう。 町を良くするのも、国を良くするのも大した造作は要らない、国主の心掛け次第である』

*伽藍

寺院

 

一、諸沙汰直奏之時しょさたじきそうのとき、 理非りひ少も被枉まげられまじく候、 もし役人致私曲之由被聞及しきょくをいたすのよしききおよばれ、 在状分明ざいじょうぶんみょうならば、

負方可為同科候まけかたとおなじとがとがたるぺくそうろう、 諸事内輪を、懃厚きんこうに沙汰いたし候得ば、他国之悪党如何様いかようにあつかいたり共不苦候ともくるしからず、 贔屓偏頗在之猥敷掟ひいきへんばこれありみだりがわしきおきて、 行儀と被風聞候ふうぶんせられそうらはば、従他国手たこくよりてを 入者いるるものにて候、ある高僧之物語せられ候うは、主人あるじは不動、 愛染あいぜんのごとくなるべし不動之つるぎひっさげ愛染の弓をたいしたる事、 全衝まったくつくにあらず、いるにあらず、悪魔降伏之相にして、 内心慈悲深重也ないしんじひしんちょうなり如其侍之頭そのごとくさむらいのかしらをする身は、 先我行跡まずわがこうせきを正して、士卒忠臣にはしそつちゅうしんには 与賞しょうをあえ不忠反逆輩ふちゅうはんぎゃくのともがらをば退治し、 理非善悪糺決りひぜんあくきゅうけつするを、慈悲じひ之賞罰とは申候はん、 たとひ賢人、聖人之語をさとりり、諸文を学したり共、心偏屈こころへんくつにしては不可然しかるべからずに君子不重則不威おもからざればすなわちいあらず などとあるをみて、ひとえ重計おもきばかとと心得てはあしかるべく候、重も軽きも、 時宜時節じぎじせつに寄て、其振舞可為肝要事そのふるまいかんようたるべきのと

『判決を下すにあたり、正と非は少しでも曲げてはならない、もし、公正でない判決をしたことが後に役人に聞き伝わり、 それが明白であったならば負け方と同じとがを勝者に課すべきである。 また、一般的には内輪の者に対しては慎重に扱い、他国の悪党はいかようなりとするがよい。ただし、 依怙贔屓えこひいきやみだらな掟、悪習慣が有ると他国に噂さが伝われば責めとがめられるとこと必然である。 ある高僧が言うには、あるじは不動、愛染のようでなければならない、 不動明王は剣、愛染明王は弓をもって厳つい顔をしているが、これを武器として逆らう為ではなく、弓を射り脅迫するものでない、 これは、ただ悪魔を退治させるだけのものであって、内心は非常に慈悲深いものである、主たる身の者も、 まず自分の行いを正しくして、権力を振りかざすのではなく、忠義をただす侍には褒美を与え、そうでない者は厳しくせよ。 事の正否、善悪を正しくさせるのが配下への思いやりと言うのではないか。 たとえ知識、学問などに長けていても心が偏屈であってはならない事で、論語では、【人は重厚でなければ威厳がない】というが、 重いばかりが能ではない、落ち着きがあって重みがあるのも良いが、時には軽快に動き即応しなければならない時もある。 時と場合によってその振る舞いを加減することが肝心ではないか』

被枉まげられまじく

道理をまげてはいけない

*不動明王

剣と縄を持った火炎の中に座る五大明王の一人で悪魔や欲情からでる心の迷い滅ぼす神

愛染あいぜん明王

弓を持ち三の目と六本の腕で愛により人を欲情からおきる迷いを抜け出させる神

*士卒

上級武士から下級武士まで

糺決きゅうけつ

誤りを正す

 

 

右条々、忽諸こつしょに思はれ候ては無益候むえきにそうろう、 入道一孤半身にゅうどういっこはんしんよりより、尽粉骨ふんこつをつくし、 不思議に国をとりしより以来このかた、 昼夜不緤目令工夫めをつながずくふうせしめ、名人之かたらいを耳に挟み、 諸卒しょそつ下知げちし、国家無恙候こっかつつがなくそうろう於子々孫々ししそんそんにおいて守此旨候このむねをまもりそうらはば、 日吉ひえ、八幡之御教おんおしえおなじく思はれ、 国をたもち候はば朝倉名字可相続そうぞくすべし末葉まつようにをゐて、 吾がままに振舞ふるまわ候者そうらわば、後悔先立まじき者也

『右の条文は充分に理解してほしい、我、孝景は骨身惜しまず目一杯努力してきた、結果なんとか国の あるじとなる事が出来た。それは、昼夜を問わずひたすら方々に目を配り創意工夫をしてきた、 また、識者から意見を聞き、それを参考に配下にも告げ、無事ここまで国を治めることが出来た。 今後も、この条文は日吉、八幡宮の教えと同じと思い末裔まつえいまでこの事を守り国を保てば朝倉の名も絶える事はなかろう。 ただ、末代に於いて条文でいましめた事を守らない身勝手な行いをするような者がいたならば、 その者はきっと後々悔いることになろう』

忽諸こっしょ

軽んじると

*入道一孤いっこ

主が目分のことを謙遜していう言葉

尽粉骨ふんこつをつくし

力の限り

不緤目めをつながず

方々目配りをする意(目を一か所につなぐ事を否定)

*諸卒

多くの配下に

下知げち

言い伝える

無恙つつがなく

無事で日を過ごすこと(恙虫つつがむしにやられないの意から)

日吉ひえ八幡

日吉、八幡社(武将の誓言で日吉八幡にかけて云々と言う)

振舞ふるまい

行動、挙動

~越前 朝倉氏の研究記録~

所見

嗚呼、無念である、義景よしかげは信長の天下統一のための戦略計画で筆頭攻撃目標となり朝倉最後の大名、 男の厄年四十二歳で世をさる事になる。(1573, 8, 20)同友の浅井長政ながまさも信長の妹『お市』をめとり安泰かと思われたが、 信長が越前攻略を始めたため、明日は我が身かと義景と同盟し対戦するが、彼も敢え無く八日後の天正元年八月(1573,8,28)小谷城陥落で自刃する。 同じく同友武田信玄はなぜかその同じ年四月に(1573,4,12)阿智川(現長野県昼神温泉)で伏す。 しかし、嫡子勝頼かつよりの思惑によりとむらいを三年間隠し通し信玄の威光でなんとか領国を維持してきたが、 これも信長の討伐により武田うじは滅亡となる。(1582)。 旧友上杉謙信の消息と言えば、その後に信長を加賀で破ったものの(1577)春日山城(新潟県上越市)で急死(1578)二人の養子の跡目争いで一族崩壊。 同盟の斎藤龍興たつおきに至っては道三の孫と言うだけだった、竹中半兵衛と言う家臣がいた、知謀の将と言う男で、 さすがさっさと龍興から去って、信長に仕え秀吉の参謀に までなったが若死にしている、美濃三衆(稲葉一鉄、 氏家卜全うじいえぽくぜん、安藤守就もりなり)も知らないうちに離反、信長の言いなりにされてしまった。 気の毒なもので、龍興も若かった、刀禰坂で討ち死にしたのは二十五才、斎藤家もここで消滅する。 この時、長井隼人と言う美濃関の城主がいた、長井家は道三時代からの付き合いで人情絡みもあり、 俺の主は龍興しかいない何がなんでも稲葉城は守らねばと言う男だ ったが、刀禰坂以降行方知れずとなっている。 しかし、不思議なことに一人無名の男がいた、隼人の家臣大嶋鵜八(後に信長が雲八と呼ぶ)である、彼はなかなかの血すじで先祖は新田義貞に従い、 尊氏討伐の侍大将で名を残している。しかし、所詮戦乱の世、実力主義の時代鵜八そのような事おくびににも出さない。 この男を知っているのは精々上司の隼人くらい、律義で堅物六尺を越える大柄な男で弓の名手と言うが名までは。 勿論、朝倉の勢力下にあった美濃地域であるが義景など知る由もない。下位から上位には何の承諾の必要もなく師とあがめる事ができ、 一挙一動はもとより、思想まで似るもので、似てこそ主従と言うものである、夫婦めおとの契りは三世で切れるが、 主従の結紐けっちゅうは永久と言う。親方が稲葉城は守って見せると言えばそうするより他無い頑固一徹な男。 なぜこの男を信長が拾い上げたか。信長の情報戦略の一手法として、照準を狙い定めたら腹心を狙えという、侵略の手法は攻撃と猜疑心以外に無いと言うが、 この手法陽明学学者沢彦たくげん(井の口と稲葉城を岐阜と改名した和尚)の直伝というがはたして。 大嶋雲八光義、関藩藩主となるが決して長井家、斎藤家、朝倉家から受けた恩遇は忘れてはいない、英林の家法を貴び、 斎藤、長井氏の恚恨いこんを『夫子の道は忠恕のみ』(大嶋家家訓、家康公より忠志な男と褒め称えられ 忠恕と答辞したと伝説)と涙で拭い去り、あの奇才と言われた信長にも仕え、秀吉には大きく期待を受け摂津で毛利の守備に赴き、 関ヶ原の戦いも、別名『豊臣狩り』とも言われ、大半ここで振いにかかるが、希にも兄弟東西に別れての戦であったが全員無事で徳川幕府の仕える。 長男関藩主、次男川辺、その分家加治田、三男迫間で旗本と、末子は伯耆城(鳥取)で家老職、長女は元祖槍術大嶋古流吉綱の母であり、 次女は十八で尾張前野家の雄成殿に嫁ぐが殿は無念にも関ケ原で鉄砲に因る戦死、 彼は織田側近の森勘解由かげゆうの孫であってこれには少し訳がある。 この祖父のさいが才女『あぐい』殿である、前野家の一人娘で一歩も外へ出たことがないと言う、 勘解由は止むを得ず森の名字を付けたまま前野家にいる、その『あぐい殿』が溺愛した孫の二代目勘解由雄成が戦死と聞い その落胆ぶりは見てはいられないが、嫁(雲八の娘)の気立ての良さでなんとか救われている。ここは前野千代女が綴った 『武功夜話』乱世の様を克明に記録した大作で伊勢湾台風の余波で発見され貴重な史実、 堺屋太一らが絶賛一躍脚光を浴びた名家であるが残念にも慶長十四年(1609)名家は消えている、切支丹弾圧に因るものである。 義景が大野六坊賢松寺に散ってから約三百年経過、慶応三年大政奉還、徳川が政権を返上し(1867)翌明治元年となる。 同三年開通予定の鉄道工事が始まり大嶋備後守、脇坂淡路守邸(老中外事官)周辺は新橋駅となってしまった。 織豊時代からここまで激動を乗り越え系譜が継続している武将は少なくない、淡路守も浅井氏に仕えた近江の出身で同じような経歴、 稲葉一鉄も、斎藤から信長に鞍替えしたのは周知で、本能寺の直後から親方が居ない事にうわつき、美濃一帯悪政を下したり、 あの苦楽を共にした安藤守就を何故か滅ぼしてしまうなどで秀吉に嫌われ終りかなと思ったら、長男貞道が優れ者だった、 郡上八幡の城主になり関ヶ原では尾張美濃の武将が多く西軍だったため開戦直前まで待ち東軍につき軍功を上げた。 一鉄の孫養子の正成も凄い男である。秀吉の重臣であり小早川秀秋につき作戦本部長となり開戦と同時に若い秀秋(当時十八才)を説得、 石田の差し金で越前に移封されたと誇張、作戦を変更させ直前の寝返りと今でも汚名がついているが東軍の勝因を作った、 そのときの事実上の軍配指揮官であった、彼の妻君さいくん春日局かすがのつぽねでこれまた大変。 三代将軍家光の乳母めのととは知られているが、正成の四子を産んでさっさと大奥入り彼女の父は 斎藤利三としみつで本能寺の変の企画立案者、母は稲葉通明の娘、大奥の統率は無論の事『掟』なるを制定、 女子のことはすべて局の沙汰するところと言う決定権をもちなにせ将軍家康をも操ったと言う、世嗣せいしの決定、 つまり天子のあと継ぎの事まで影響力を及ばせた才女である、将軍家光の父は二代将軍秀忠であるが母は絶世の美女、 悲運の男浅井長政の娘『江与えよ殿』であるから歴史とはこの様なものである。 大嶋家古文状によると『大権現台命日光義が忠志常々』略『御感被思召依之豊後國臼杵之城二可居哉之由』とあり訳文すると、 (家康よりの親書で、この度の戦には良く働いてくれた、よって戦功により臼杵城主を勧めるがいかがか。雲八光義遠方の為上司本田正純公をへて断る。 他に何なりと申せ、しかれば関は生国出来ればこの近辺で願所望す。ならば都合の良き分にせよ)まったく欲のない話で、 この臼杵を(大分県)一鉄の息子、即ち郡上八幡城主貞道が五万石で頂戴することになった。雲八と言えば関と摂津合わせて 『一万八千石で充分で御座います』と言うわけである。折角にも家康公が欲しいだけ取れと言うのここまで律義とは、 知行ちぎょうは多ければそれなりの苦労はあって自らの意に反し幕府の都合で改易かいえき、 減封げんぽう国替くにがえ等は時によって余儀無くされるものである。 参勤、信長は安土に服属武将を頻繁に呼び付けたし、秀吉は大坂城や伏見に諸候の家族を強制的に住まわせ領国と行き来させる、 世に言う参勤交替制の原形でこれには皆懲りごりである、関ケ原ではこれにより散々な目にあう。 知行で一番苦労するのが耕作民百姓、つまり、内高と表高の差が大きければ大きいほど大名は潤うが(内高=新田開発及び増産、 表高=幕府の公認検地による収穫高)いずれどちらを取っても下級役人と農民は苦労する。それらの事情を理由としてか否やか、 後に大嶋家は俸禄ほうろくを四実子に分封ぶんぽう直参じきさん旗本となる。 人の能力は識見の広さだと言う、これは師と崇める人物像が自身の周辺にいるのか、いないのかでその広さが決定し、 自身の人格形成にも大きく影響を及ぼすものである。識見とは物の是非善悪、付加と負、右顧左眄うこさべん、 天と地の判断と決定で、増強、増大のみを言うのではない。今日でも、旧主を慕い偲んでか、はたまた英林の理念の無意識の伝心か、 摂津(豊中市)に行けば洲到沚すどうしの『大嶋のお殿様』を知らない者はいないし。関においてはやはり、 雲八が朝倉を崇拝した名残か、代表的な地名、学校名、町名、企業の名号に朝倉、安桜あさくらがやたら多く 愛称されているのも一つの表現かもしれぬ。時は巡り、平成14年4月28日、優美な『ピアノコンサートと昔語り加治田の里』が開催された、 フィナーレは『ふるさと』の大合唱であった、制作スタッフはそれぞれ目頭を熱くし感激に胸を詰まらせている。 あちこちでは再開を誓う握手が互いにされている。信長の奇襲、美濃攻めは鬼門(清洲城から見て)を狙えと 加治田(現岐阜県富加町)へ集中攻撃をかけた、斎藤、長井軍は何としてでも守らねばと抵抗、この周辺一帯は修羅場と化してしまった、 これは永禄十年初秋であった。しかし、急襲ではない、それより八年前永禄二年(1559)に美濃の入り口、 宇留間(鵜沼)城主大沢にその主命の旨を伝えているし、同四年州之俣(墨俣)では土塁工事に着工、関の長井の兵力は五千四百有余と推測し、 実際中美濃なかみのに残留しているのは半数以下、後は稲葉、 州之俣へ仕掛けに移動とここまで割りと長期に且つ正確に読んだ作戦を立てている。 それから435年の歳月が流れ春爛漫、桜こそ盛りを越えたものの麗らかな春真っ 直中で物静かないにしえの里に、 何かもう一つ静けさがあるこのあたり。しくもこの場所でこの様な会が開催できるとはだれしもが 夢々想像できなかったであろう。この古戦場跡から突如『チャイコフスキーの花のワルツ』が連弾で響いてくる。 しかも県下最古の造り酒屋、松井屋酒造の蔵からである。何と見事にこの里と調和しているではないか、 古い酒蔵さかぐらからかもし出す甘酸っぱい香りと、グランドピアノの旋律がどの様に調和したとは説明しにくいが、 観衆の五感を揺さぶり、この歴史ある古い里をも巻き込んでしまったことには違いない。 この会の前半は、加治田の旧領主大嶋義保の末孫巨島おおしまいと殿(静岡県引佐高校講師)による加治田の昔話で花ひらき、 明治以降の武家の変化などを歴史書の裏側から見た逸話いつわなど興味深い講話があり明治四年の廃藩以来の帰郷であった。 また、後半は大嶋家直系32代末孫ピアニストで著名な大嶋樹美江女史と川合見幸姉妹による合同演奏で観客は うっとりとせざるを得ない状況に浸っていた、無論、演奏の内容が優れている事は言うまでもないが、 酒造所の古い木造建築の音の吸収と反響のバランスが解け合い、それは一流のコンサートホールに匹敵する感覚であったと 大勢の観衆から喝采を浴びたからである。 しかし、顧みれば朝倉一系一族も幾度となく深い谷底に蹴落けおとされ永い屈辱の日々もあったが それを自力で這い上がり今世につないでいる、その秘訣はやはりそうさせる力量の遺伝子を夫々が持っているのではないか。 この力量とは朝倉と一時代を背景に苦難の道を歩み共に辛酸を味わった者のみに与えられた因子ではなかろうか。 我が萬世一系一族は将来においてたとえ困難な境遇に陥っても、英林の理念が理解出来る限り先は安心くだされ。 信長の鬼門攻めを発端に戦渦に巻き込まれたこの地は元は穏やかな地であったが美濃を落とすにはここへ来ると察知した長井と加治田の佐藤、 堂洞の岸勘解由かげゆうが三国同盟不可侵を結ぶがこれが悲劇を生むことになる。巧みな信長の戦略にかかり結果、 佐藤紀伊守の令媛れいえん緑姫を岸は盟約破りと生けにえと言う悲劇にし、嫡子は戦死させてしまう。 やがて岸も追い詰められ、吾が息子の討死にガックリと肩を落とすが、その背後で母は高笑いしたという。 やはりここでも女性は強い、『先立つもしばし残るも同じ道此の世の暇を曙の空』と辞世を残し自刃、それを見送り勘解由も妻の後を追ったと言う。 その後、加治田は大嶋家家領となり、以前のように静けさを取り戻し穏やかな里となった。 耳を澄ますとかすかかに聞こえる川浦川のせせらぎ、龍福寺の山鳩の泣き声が聞こえたりして心和なごませてくれている。

 

晩秋

 

 

この記念すべき維新以来の集合に遠来より出席願った、九州大学文学部上野洋三教授、金城学院大学文学部神作研一助教授、 京都赤十字病院巨島文子医学博士(加治田大嶋11代末孫)の諸氏には深く感謝を致します。 また、富加町史編纂委員中島勝国氏の資料の提供、松井屋酒造酒向嘉彦氏の献身的な協力をはじめ多くの方々に理解を頂いたこと合わせて御礼申し上げます。